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キラワレチャレンジ

子どもの世界って狭い。

もちろん例外もあるけど、だいたいの子どもの毎日は家と学校の往復でできている。
だからそのどちらか、またはどちらにもうまく適応できなかったり環境が荒れていたりすると、その子どもの世界の半分ないし全部がつらくて悲しいものになってしまう可能性がある。

実際にそこまで極端な状況じゃなくても、感情の揺れが大きな子どもにとっては、ただ一つの絶望がすべての絶望に成り代わってしまう危険を孕んでいる。小さな世界の中でそれを小さな世界とは知らず、強すぎる感受性を持って生きていくのは、大人の生活よりよっぽど大変なことかもしれない。

だからこそ小さい頃の家庭環境や学校の環境というのは子どものパーソナリティーに大きく影響するし、そこに不和があった人間というのは成長してからもどこかしら同じ匂いを感じるのだと思う。

私自身、学校にはほとんど不満はなかった、というか、あるにはあったけど家庭での不満に比べたらそれは取るに足らないほどちっぽけなものだった。

親が、大嫌いだった。全く信頼していなかった。小学生の頃から絶望していた、こんな理不尽にさらされてこのまま自分が大人になるまでこの家でこの人たちと生きていくなんて、無理に決まっているとはっきり思っていた。
…まぁ、その内容の話はいいとして。今はさすがに、いくら親といっても、「大人」といっても、自分と同じあまりにも不完全な人間だってわかるから、それは仕方のないことだったんだと思えるけどさ。子どもにとっての「大人」は絶対的なものに見えたから、それはもうふざけんなと思っていたよね。

でもそういう人ってやっぱり結構いて、「親」とか「家族」の側に問題が寄っていた人というのは少し話せばだいたいわかる。音楽とか作品を作る人の場合も、その中身を見ればだいたいわかる。学校とか同年代とのコミュニティーを築くのに苦労した人と、家庭でのそれを味わった人って、やっぱり少し違う。どちらもあった人にはひたすらよく頑張ったねと敬服するばかりだけど。

どうしてもそちら側の人間や作品に惹きつけられる。それが良いとか悪いとかでは全くないんだけどね。私が単にそちら側の人間だからなのだろうけど、そういう人や作品がすきだから、それを掬い取るアンテナがある今を悪くないなと思える。そのおかげで出会えた人やものがあまりに多く、あまりに助けられているから、いろんなものは巡り巡って辻褄が合うようにできているのかもしれない。

着地点を考えずに書き出したから特にこれが言いたいとかはないんだけども、その涙を私は、尊いと思うよっておはなし。